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    2016.09.30

スタッフブログ 時計台通信

時計台のスタッフが時計台に関するちょっと気になることや、まめ知識を随時更新していきます。

何時から時計台と言われるようになったの?

明治35年ころまでは「農学校の大時計」といわれていました。何時のころから時計台とよばれるようになったかはっきりしません。初めは「農学校の大時計」と呼ばれていました。有島武郎の星座(大正10年)では「演武場の片隅にある時計台」とあり、大正11年に高階哲夫は「時計台の鐘」を作詞作曲しています。これらから明治時代は農学校の大時計、又は演武場の時計台といわれていたものが、大正時代に「時計台」と呼ぶのが一般化したようです。

時計台は建てられたときから今の場所にあるの?

時計台は札幌農学校の敷地のほぼ中央に建てられました。札幌農学校は北1・2条、西1・2丁目にあり、時計台は現在の位置より150メートルほど北東にありました。明治36年札幌農学校が現在の北海道大学の位置に移転し、明治39年現在地に解体することなくその姿のまま引いてきました。現在の時計台の位置は昔の農学校の南西角に当たります。

景色が歪んで見えるのはなぜ?

明治時代の貴重な重要文化財です。ガラス1枚といえども大切にしています。明治のガラスはもう残っていませんが、今では見られない古いガラスがたくさん残っています。ガラス越しに外を見て景色が歪んでいれば、昔の人と同じ感覚になれます。ガラスから反射した北側の板壁の光の模様からガラスの作られた時代の技術の差が見えます。

時計台は教会?

学校の屋内体育館のように使われました。明治30年代の講堂の雰囲気を再現展示しています。天井は木造の合掌構造が見られ、レトロな4人掛け木製椅子が並んでいる様子は、教会のようです。椅子に座り古い歪みのあるガラス窓から差し込む光に当たっていると、すぐに明治の新渡戸稲造や有島武郎の時代にタイムスリップします。

クラーク博士は時計台で生徒を教えたの?

クラーク博士は、明治10年に「ボーイズビーアンビシャス」の言葉を残し島松より帰国しました。博士の帰国後、明治11年に時計台が建設されたのでクラーク博士は時計台で授業を行ったことはありません。

新渡戸稲造・内村鑑三・宮部金吾はクラーク博士から直接教えを受けたの?

新渡戸・内村・宮部は第2期生として明治10年農学校に入学しました。入学したときにはすでにクラーク先生は帰国していたので直接教えを受けることはありませんでした。しかし1期生の話を聞きクラーク先生の教えを守りました。

時計台の時計は電気仕掛けで動いているの?

時計台の時計は電気や電池などを使わない、地球に優しい時計です。動力となるのはおもりの力で、このおもりを人力で週に2回巻上げています。

時計機械は明治時代より部品を取り替えていないの?

時計機械は明治14年に始動し、120年以上経過しましたが、ワイヤーロープやねじなどの消耗部品以外は交換していません。明治の姿のままで動いている時計は世界でも数台しかありません。

時計台の鐘は今もなるの?

時計台の鐘は現在も毎時間なっています。他の塔時計などは夜間うるさいので鳴らしていない所もありますが、時計台のまわりはオフィス街なので夜間に鳴らしても怒られることはありません。

時計は止まることがあるの?

時計台の時計は振子で時間の調速を行っていますので、地震があると振子がいつもと違う振り方なってしまいます。すると振子は止まってしまい時計機械もストップしてしまいます。このような時は時計保守の人は夜中でも時計台に来て調整します。時計台の建てられている所が地盤が良いので小さい地震では止まりません。

時計台の壁の色は昔から変わっていないの?

時計台のイメージとして赤い屋根に白い壁が印象的ですが、建てられたときは灰色で、その後薄いグリーン、グリーンという時代もありました。屋根の色は残念ながらわかりません。

赤い星はどんな意味があって何個あるの?

時計台の赤い星は開拓使のシンボルマークです。北の大地を開拓するという強い精神を持った人たちが北極星をシンボルマークとしました。時計台には17個の赤い星があります。道庁やビール会社の星も一緒のシンボルマークです。