時計台を守り伝える Maintenance of the Clock Tower
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時計機械の保守
1881年(明治14年)に塔時計がつけられてから、重りを吊すワイヤー、文字盤の木製の針、欠けた歯車の歯2本とネジ数本及び重り巻き上げハンドル軸1本を取り替えた以外は、当初の機械が正確に時を刻み毎正時鐘を鳴らしています。130年以上前のハワード社の塔時計が当時の姿のまま動いているのは世界的にも例の少ないことです。
このように時計が正確に動いているのは、大切に守る人がいるからです。
農学校時代の時計保守
農学校時代は誰が時計の保守をしていたのでしょう。最初、農学校の観象台で天文観測を行いながら時刻調整を行ったのは米人教師のピーポデーでした。ピーポデー先生の帰国後引き継いだのは日本の教師工藤精一であり、明治14年8月12日の塔時計運転開始の報告書を書いています。しかし、実際の時計の保守と重りの巻き上げを誰が行っていたのかはわかっていません。
1888年(明治21年)札幌の標準時計に指定されてから以降の時期には、市内の中野時計店が保守と巻き上げを行っていたことが推測されます。中野時計店は1891年(明治24年)頃南1条西3丁目に開店し、関東以北随一と言われた時計店です。鐘の部屋の梁などの2カ所に中野時計店の屋号(☆の内側にNのマーク)が墨で描かれています。中野時計店の時計職人が保守点検を行った時に描いたものと思われます。欠けた歯車の歯2本の修理と櫛歯レバーのヒビ補修は優れた職人の技でなされています。恐らく中野時計店の職人が修理したのでないかと推測されます。
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鐘の部屋の中野時計店のマーク
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歯車の歯の修理跡
教育会時代の時計保守
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重りを巻く森善次さん
1903年(明治36年)農学校が移転し、時計台は札幌市が譲り受けたうえで北海道教育会、札幌市教育会が1943年(昭和18年)まで時計台を使用しました。この期間の前半で時計保守(重りの巻き上げ)を担当したのは教育会の書記職員でした。1926年(大正15年)まで佐藤広吉さん、1929年(昭和4年)まで林矢太郎さん、1933年(昭和8年)まで森善次さんという3人の方がいたことがわかっています。
井上清さん、和雄さん親子による時計保守
1928年(昭和3年)、中野時計店で修業した井上清さんが時計台の北側の北2条西2丁目に時計店を構えました。その頃、時計台の時計は止まっていたと清さんは言っています。時計台の下を通るたび、「申し訳ない。そのうちきっと直してやるぞ、と心の中では頭を下げて通っていたものです」が、お店が忙しくできませんでした。そんなある日、時計塔の南側の明り取りの窓ガラスが割れていることを見つけました。「このままでは雨が吹き込み時計機械が錆びて駄目になる」と考えた清さんは、市役所に駆け込み時計の世話をすることを掛け合いました。なかなか「うん」と言わない役所にしびれを切らし清さんは強引に時計機械室に入りました。思ったとおり機械は錆びついていました。幾日もかけて時計の分解掃除をした後、時計はふたたび動き鐘を鳴らし始めました。清さんによる時計保守奉仕の始まりでした。1933年(昭和8年)清さんが36歳の時です。
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分解掃除をする
井上清さん(昭和25年、52歳頃) -
重りを巻きあげる
井上清さん(80代)
息子の和雄さんは昭和4年生まれ、時計台の近辺が遊び場で北1条通りをはさんだ中央創成小学校に通っていました。学校の先生から「大きくなったら時計台の時計はお前が守るんだ」といつも言われていたそうです。しかし、和雄少年の夢は飛行機の設計をすることでした。太平洋戦中、中学生の和雄少年は少年工募集に応じて日立航空機羽田工場で戦闘機の部品設計と機体組立に従事しましたが、敗戦とともに帰郷し札幌工業高校に通いながら清さんについて時計職人の道を歩むことになりました。和雄さんにとっては必ずしも望んだ道ではなかったかも知れませんが、清さんはこれで時計台の保守を息子に教えることができると安心したことでしょう。こうして、家業のかたわら親子による時計保守通いが始まりました。
29歳頃の井上和雄さん
時計技師である井上さん親子の目から見て、ハワード社の塔時計は素晴らしいものでした。シンプルで無駄のない設計、鋼や真鍮を使った部品の材質の良さ、正確さと耐久性を考え抜いて作られた時計です。丁寧な保守を行えばいつまでも動き続けてくれるはずです。 週2回の重り巻き上げ、機械の点検と清掃、月毎の注油作業が1年、2年と続き、そして80年という長い年月にわたり保守作業が続けられてきました。この間、地震で時計が止まったり遅れたりしたことが10数回ありました。震度3以上の地震が来ると振子の動きが乱れるなどして時計に異常が出ます。少し大きな地震があると夜中でも時計台に駆けつけ点検し対処しなければなりませんでした。冬の寒さで、文字盤の針を回す軸に溜まった水が凍りつき、時計が止まったこともあります。 また、戦後日本が占領軍の施政下にあった1948~1951年(昭和23~26年)の4年の間サマータイムが実施されました。サマータイムの始まりの日と終わりの日の年2回、午前零時に時計を早めたり遅らしたりする作業が必要でした。 何かあればすぐ駆けつけられるようにするため、仕事の場合を除き泊りがけの旅行はできなかったそうです。 時計機械に異常が出ていなくても気を緩めてはいけないと井上和雄さんは言います。ある日時計のネジが1つ床に落ちていた、2,3日前の点検では異常がなかった部分で、道路を走る自動車の振動などが時計機械室に伝わり数日の間にネジが緩んでしまったのです。
井上清さんは1996年(平成8年)99歳の高齢で亡くなりました。後継者の指導に一人で頑張っていた和雄さんでしたが、腰を痛め梯子を登って時計機械室に上がることが困難になったことから、2014年(平成26年)3月をもって一線を退きました。現役時代の井上さんは機械室に入室、退室する時は必ず時計機械に一礼をしました。それは、演武場の建設を提言したクラーク博士、素晴らしい時計を作ったハワードさん、そして133年経ても狂いの無い時計塔を造った安達喜幸さんへの感謝の気持ちからです。保守を続けるうえで大切なことは「時計に惚れること」とも言われています。 現在、和雄さんに指導を受けた2名の職員が井上さんの言葉を噛みしめながら保守を行っています。
時計機械室に書かれている言葉。
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井上和雄さん
平成9年の時計分解掃除修理井上清氏
「最後の点検怠るな。後世後輩に良き手本を示せ。」
井上和雄氏
「ベテラン必ずしもベテランならず。慣れがミスを呼ぶ、初心忘るべからず。」
「点検の基本 1.目で見る 2.音をきく 3.臭いをかぐ 4.触って見る」
時計機械の日々の保守
時計台の時計は地震や風雪で止まることはあっても故障で止まったり、大きく時刻が進んだり遅れたりすることはありません。それは日々の保守作業が念入りに行われているからです。
時計保守で最も大切なことは重りの巻上げ作業です。万が一重りが下がりきってしまうと時計機械が止まりますので週に2回必ず巻上げます。定期的に重りを巻上げる作業は大変なので、世界の塔時計の多くが電動巻上げ装置に変えられてしまいました。
重りの巻上げはハンドルで行います。運針用は56回、打鐘用は125回巻上げ、体力を必要とします。
針を動かす運針用と鐘を打つ打鐘用の重りがあります。運針用は1辺34cm、深さ62cmの木箱に小石を入れ50kgの重さにしています。打鐘用は48.5cm×36cm、深さ118cmの木箱に玉石を入れ150kgの重さにしています。重りの石は1881年(明治14年)に豊平川から持ってきた石を今でも大切に使っています。
時計機械は油が切れたり、ほこりがついたりすると摩擦ですりへってしまいますので注油したり、ほこりを取り除くのも時計を正確に動かすために大切な作業です。
建物を守る
鐘が鳴ると建物が揺れた?
農学校卒業生(15期生)の回顧談によると、時計台2階の教室で実験の最中に鐘が鳴ると建物が揺れて実験にならなかったそうです。確かな技術を持った安達喜幸らが手掛けた建物のはずですがどうしてなのでしょうか。詳しくはわかりませんが当時の建物の基礎は石積みと考えられます。その上に木材を渡して土台としていました。現在のようなコンクリートではありませんでしたので、年数が経て土台が腐ったりなどして建物の安定が悪くなったと考えられます。このため、土台の補修などが行われたようです。
曳家した時計台
1906年(明治39年)、時計台は時計塔と時計機械をつけたまま現在の位置まで曳家で移されました。詳しい工事の記録は残っていませんが、請負者は山本金太郎と伝えられています。工事にあたった人達は時計機械を壊さないよう慎重に工事を行ったに違いありません。この時に基礎を軟石上にレンガ積みにし、現在の1階小展示室内に独立柱が立てられました。
なお、曳家工事の予算を審議した区議会では、時計台の向きを街の中心部の南側(大通側)に向かせるべきだという意見と、当初の姿を尊重し西向きとする意見が対立しました。採決の結果、西向き賛成議員8名、南向き賛成議員6名という僅かの差で当初どおりの西向きとなりました。(この時の議事録の写しは1階大展示室でご覧いただけます)
教育会が寄付を集めて傷んだ時計台を修理
北海道(連合)教育会と札幌市教育会が時計台を使用していた1924年(大正13年)、傷みが目立ち始めた時計台を修理するため、教育会が市内外の教師たちに寄付を呼びかけました。集まった4,000円の寄付を受けて市が修理を行いました。2階のホール(演武場)が使いやすいよう蒲鉾(かまぼこ)型天井をつけるとともに東側に階段室がつけられ、外壁塗装修理が行われました(残っている図面から工事は1922年(大正11年)に行われたとも考えられています)。
さらに1933年(昭和8年)、札幌市教育会は「強風にも振動する危険に頻して」いた時計台を修理し市民、道民の教育・文化施設として一層の利用発展を図るため、市内教職員、生徒父兄、市内学校卒業生、市民有志等に広範な募金活動を行いました。集まった寄附金4,000円と市の予算4,000円、計8,000円(うち1,500円は設備改善費)をもって修理が行われました。基礎・土台の修理、1階独立柱の化粧板囲い、1階床板張替、玄関ホール床をコンクリート土間に変更、屋根葺き替え、管理人住宅の新設などが行われました。
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1939(昭和14)年の時計台
太平洋戦争中の時計台
太平洋戦争中の時計台は陸軍に接収され通信隊などが使用していました。しかし時計は戦時中も動き鐘を鳴らしていました。井上清さんは週2回の巻き上げをそれまでと変わらず行っていました。大通公園に置かれていた黒田清隆の銅像や北大のクラーク像などは戦時の金属供出のため撤去されてしまいました。時計台の時計機械や鐘が供出されなかったのは何故でしょうか。戦争中も市民に正しい時刻を伝える必要があったことも考えられます。 もう一つの理由は、時計台は明治天皇が1881年(明治14年)北海道行幸の折に農学校を視察し、9月1日演武場の2階で生徒の物理・化学の実験を高覧されたことから、正面南側に「明治天皇聖蹟」記念碑が建立されていた建物であったからでないかと考えられます(碑の建立は1934年(昭和9年)9月)。金属供出により国内のお寺の梵鐘の9割が失われたそうですが、国宝などは除かれました。時代の背景もあり「明治天皇聖蹟」には国宝に匹敵する重みがあったと考えられます。
市立図書館に向けた改修
1950年(昭和25年)の図書館開館に向けて、図書館として利用しやすくするための改修が行われました。2階閲覧室の寒さ対策のため天井が張り直され、煙突の本数を増やしました。館内を明かるくするため北側の窓は引違いの連窓に変えられました。屋根の葺き替えと外壁の塗装修理も行われました。この時外壁は濃い緑色に変えられましたが、農学校2期生の宮部金吾博士らが、時計台は当初の白い色がふさわしいとの意見を市に申し立てました(実際には当初は灰色であったことが後年の修理工事でわかりました)。市は宮部博士らの意見を尊重し3年後に白いペンキに塗り直しました。この時以後、白い壁に赤い屋根の時計台のイメージが定着することとなりました。
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図書館改修前の時計台
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1958年(昭和33年)皇太子の行啓と時計台
図書館移転後の時計台の修理
明治末以後長らく市民の図書施設、図書館として使われていた時計台でしたが、1966年(昭和41年)市立図書館を別の場所に新設することになりました。すでに1961年(昭和36年)、時計台は札幌市の有形文化財第1号に指定されていたことから、図書館の移転を機に、できるだけ創建時の姿に戻すこととなり、北海道大学工学部の教授による建物の調査が行われました。当初の時計台の意匠、形態が概ね明らかになり、その結果に基づき1967年(昭和42年)修理工事が行われました。窓枠の形態と位置の変更、正面階段の変更、2階床板の張替、屋根修理、コンクリート布基礎への変更、トイレ設置などが行われ、時計機械室の内部壁付設と塗装もこの時行われました。建物利用上の必要から東階段室の存続、トイレ設置など全て当初の姿に復元された訳ではありませんが、内部造作、外部形態など創建時の姿がよみがえりました。
工事終了後の1968年(昭和43年)以降1階は教育文化団体の事務室、2階は札幌の歴史資料展示室として使われました。
この修理復元工事を経て、時計台は1970年(昭和45年)国の重要文化財に指定されました。
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2階歴史資料展示室
札幌歴史館時代の時計台の補修等
1972年(昭和47年)2月冬季オリンピック札幌大会の開催、4月政令指定都市への移行を経て、札幌を訪れる国内外の人が飛躍的に多くなりました。この背景のもと、時計台は全館を札幌の歴史を伝える展示施設として整備することとなり、「札幌歴史館」として1978年(昭和53年)開館しました。
この時代も、時計台の傷んだ個所の修理が行われています。1976年(昭和51年)の屋根葺替、塗装修理等、1983年(昭和58年)の塔頂飾り取替などなどです。また、1979年(昭和54年)以降は、毎年春に車粉で汚れた外壁の清掃と塗装の補修が行われていました。外壁の清掃は市内のビル管理業者の方たちによる奉仕活動でした。市内の女性団体、少年団による清掃奉仕や1975年(昭和50年)に発足した「時計台を守る市民の会」による外柵の塗装補修なども行われました。
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札幌歴史館時代の2階展示
平成7年の保存修理工事
傷みのつど補修を行ってきた時計台ですが、1967年の修理工事以来四半世紀が経ち、屋根、外壁など大きく老朽化が目立ち始めました。このため本格的な保存修理工事と修理後の利用のための整備が1995年(平成7年)1月から1998年(平成10年)10月まで3年半の歳月をかけて行われました。工事着手直後の1995年1月17日阪神淡路大震災が発生し、文化財建築にも大きな被害が出ました。このため時計台も当初予定していなかった耐震補強をすることとなりました。
時計台の修理は、文化庁の専門家の指導と全国の修理工事を担当している㈶文化財建造物保存技術協会の技術職員の調査、設計、監督のもとで行われました。修理のために解体する部材、板材の一つ一つに番号を付し、施工方法、施工年代などを調べます。板材に印された丸鋸や帯鋸の製材機械の跡、使われている角釘や丸釘の違い、残っている釘穴から一度外された板材が再利用されたものかどうかも調べます。外壁の塗装の色についても、当初のまま残っている部材を探し、過去にどのような塗装と塗料が使われてきたかを調べます。過去の文献、図面の調査も行います。このような細かく根気のいる現場での調査が繰り返されて、建物の歴史的経過が明らかになってきます(今回解体調査しなかった範囲の調査は今後の修理工事にゆだねられます)。この結果を基に、改めて修理方針が検討され、屋根葺替、塗装修理等の工事が進められました。
修理は、これまでの部材で使えるものはできるだけ残すように行います。傷みが強く利用できない部分だけを繰り抜き新材で補修する、含浸強化剤で固める等々の方法がとられます。
耐震補強の方法としては、外壁の柱や屋根の枠材を合板でつなぎ固めていく方法が取られました。他の方法では建物の外観や内観が大きく変わり、長年親しまれた時計台のイメージが損なわれてしまうからです。
これらの修理の詳しい様子は館内の展示と映像で見ることができます。
修理後の時計台は、時計台の歴史を様々な角度から紹介する資料展示を行い、2階は農学校時代の式典で使われた演武場の歴史的な雰囲気を再現し、夜間はコンサートや講演会のできる市民のホールとして整備しました。
また、修復の機会をとらえ、時計機械の分解掃除、重りワイヤーロープの交換、文字盤針の交換などを約2カ月かけて行いました。
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修復直後の時計台
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1階展示室
時計台の歴史を様々な角度から
紹介しています -
2階ホール(演武場)でのコンサート
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LED照明に変えたライトアップ
時計台は簡素な木造建築ですが、130余年の間多くの人の手により大切に守られてきたことがわかります。それは、わずか一世紀の間に100万人を超える大都市に発展した札幌の街の歩みを、草創期より伝える貴重な歴史文化遺産として、都心に残る唯一の建物だからです。
平成26年8月には、館内の照明やライトアップのほとんどをLED照明に変えました。これからは節電のシンボルとしても大切に伝えていきます。